1937年、祖父阪井光雄と祖母阪井辰子の手によって誕生した阪井運送は、2022年で創業70年を迎えます。
いつもニコニコと頭を低くし、お客様の荷物を自分の子供のように大切に扱った初代の阪井光雄。両腕を振り上げ大きな声と全身を使ってトラックを誘導した肝っ魂母ちゃんの阪井辰子。夫婦の誠実な仕事ぶりと丁寧な運送から信頼が生まれ農家や地域の村人に喜ばれ、噂は次第に村から村に伝わり、徐々にお客様が増えました。
感謝の気持ちを忘れず「喜ばれる運送 感謝の念い」という理念を掲げた、光雄と辰子の想いを受け継ぎこれからも品質向上に取り組んで参ります。
1952年、初代の阪井光雄の手によって、阪井運送店が誕生しました。2022年で創業70年を迎えます。創業当時は十分な設備もなく人力でお客さまの荷物を運んでいたものが、牛車になり、馬車になり、そしてアメリカのフォード車へと成長を遂げました。しかし戦後、フォードは国に没収され一時は運送をあきらめかけていた時期がありました。
そうした苦難の時期に創業者を支えたのが妻の阪井辰子と3人の男の子、2人の女の子といった子供たちでした。長男次男は学校にも行かず家業を手伝い、家計を支えていたのです。子供たちが幼少の頃、辰子が名手上集荷場にトラックを誘導するときに「オライッ!」「オライッ!」と大きな声と両腕を上げながら創業者の乗るトラックを誘導する姿を友達のみんなからからかわれて恥ずかしい思いをしたと聞きます。それでも両親を支えようという家族の絆が創業を支え阪井運送店を盛り上げてくれたのでした。
創業者である光雄は大変に人徳のある人物でした。4代目阪井和篤が幼少の頃、近くのお店に豆腐を買うお遣いをお願いされた事があったのですが、その豆腐を帰り道に落としてしまったのです。それを見た創業者光雄は怒るでもなくお店まで一緒に足を運んでくれ、事情を説明して新しい豆腐に変えてもらったことがありました。周りからも慕われ信頼にたるべき人物でした。
阪井運送店が徐々に大きくなり人を雇えるようになった頃、やっと仕事から帰ってきた運転手さんに「ちょっと兄ちゃん、ラーメン食べて行きよ・・・」と声を掛けます。運転手さんは、当時は貴重であったラーメンに大喜びし、そのラーメンを食べ始めます。
ところが、終わるか終わらないかの頃に「ちょっと兄ちゃんこれからトラックに荷物を積んで走ってくれるかい」と言われ心の中では泣きながら「しゃあないなぁ」と思いながら走ってくれたと聞きました。この事から祖母は気丈で荒くれの多い運転手さんを上手に使っていたのでした。
創業から10年。社長は2代目阪井洋三に代わりました。先見の明があった洋三は、会社を現在の場所、打田に移転させ、信州やその他の地域に拡大していきました。当時から「どうすれば仕事が増えるか?どうすれば運転手さんを安定した仕事に就かせることが出来るのか?」を常に考える人でした。その甲斐あって車両はトレーラーから10tまで20両を数えるまでに成長していました。
そうした上り調子の経営が続き10年が過ぎた頃、思いもよらない事態を会社が襲いました。それは2代目経営者洋三が急逝してしまったのです。途方に暮れる家族や社員さんをまとめ、次の道に導いてくれたのが洋三の弟である3代目阪井史宏でした。
更に次の試練が会社を襲います。みかんや八朔といった名産品に引っ張られてきた物流の成長が、その生産量が減少し始めたことによって鈍化しはじめたのです。丁度その頃、後に4代目となる洋三の長男、阪井和篤が入社し、3代目史宏の号令の元、企業存続に向けて新規事業の立ち上げに奔走することになります。
そして2011年、4代目阪井和篤にそのバトンが引き継がれました。創業から50年の歳月が流れましたが、その間、脈々と受け継がれてきたものはまさに理念と呼ぶに相応しい創業者の誠実な想いでした。
そして今、新たな一歩を踏み出します。
すべてはお客様の「ありがとう」のために。
脈々と受け継がれてきたこの理念を実現すべく、阪井運送はこれからも品質向上に取り組んで参ります。